武士道と禅

武士道と禅は、別々のものとして語られることが多くあります。
しかし鎌倉時代、日本の武士たちは「生き方」として禅を受け取り、
命を懸けた決断の場でその精神を実践していました。

このカテゴリーでは、
禅を宗教としてではなく、
武士が求めた「無我」「覚悟」「今に立つ心」として捉え直し、
その本質を思想的に考察していきます。

武士道と禅

禅とは何か|本来の禅と現代の禅の決定的な違い

禅とは何か。本来の禅は瞑想やリラックスではありません。鎌倉武士が求めた覚悟の禅とは何か、現代の禅との違いをわかりやすく解説します。
武士道と禅

十牛図 第六「騎牛帰家」

──努力が消え、自然に生き始める第五の「牧牛」で、人は心に振り回されず、牛と共に歩けるようになりました。まだ完全に自由ではありませんが、もはや力で押さえつける必要もない。そこで現れるのが、第六の段階「騎牛帰家(きぎゅうきか)」です。騎牛帰家...
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十牛図 第五「牧牛」

──心に振り回されず、共に歩けるようになる第四の「得牛」で、人は逃げ回る心と正面から向き合い、今ここに踏みとどまる感覚をつかみ始めました。しかし、牛を捕まえたからといって、すぐに安心できるわけではありません。油断すれば、心はまた暴れ出します...
武士道と禅

十牛図 第四「得牛」

──逃げる心を、今ここでつかまえる第三の「見牛」で、人は本来の自分をほんの一瞬、確かに感じました。しかし、それは見えただけであり、手にしたわけではありません。心はすぐに元の勢いを取り戻し、雑念や妄想は、何事もなかったかのように戻ってきます。...
武士道と禅

十牛図 第三「見牛」

──本来の自分を、初めて垣間見る第二の「見跡」で、人は自分の心の癖や迷いの道筋を少しずつ見分けられるようになりました。足跡を追い続けていると、あるとき、それまでとは明らかに違う感覚が現れます。それが第三の段階「見牛(けんぎゅう)」です。見牛...
武士道と禅

十牛図 第二「見跡」

──迷いは、必ず行動の跡として現れる第一の「尋牛」で、人はようやく「自分は何かを見失っているかもしれない」という地点に立ちました。しかし、この気づきだけでは、まだ道は見えません。探そうとしても、何を手がかりにすればよいのか分からない。そこで...
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朝比奈切通しとは?

朝比奈切通しとは何だったのか。鎌倉武士が日常として通ったこの道には、武士道と禅が生まれた時代の緊張感が今も残ります。
武士道と禅

第1回|「武士道とは死ぬことと見つけたり」は、何を教え、何を見誤らせたのか

「武士道とは死ぬことと見つけたり」この言葉は、『葉隠』を象徴する一節として、広く知られています。あまりにも強い言葉であるため、覚悟の象徴として称賛されることもあれば、命を軽んじる危険な思想として批判されることもあります。私は、鎌倉時代に日本...
武士道と禅

人間学について

人間学は読書で磨けるのか?結論:知識は増えるが、人は変わらないことが多い人間学を本から学ぶ背景には、人としての在り方や生き方を真剣に考えたいという、そのような健全な欲求が、多くの方の中にあるのだと思います。私自身もかつては、立派な人物の体験...
武士道と禅

修身教育は人を育てたのか、それとも人を縛ったのか

「次郎物語」を読み進めるうち、私はある違和感を拭えずにいました。それは、作品そのものへの違和感ではありません。作品の背景にある「教育のあり方」、とりわけ修身教育と呼ばれたものが、結果的に日本人の精神をどこへ導いたのか
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