人間学について

鎌倉武士と禅

人間学は本を読めば身につくのか──私が鎌倉武士の禅に答えを見る理由

世の中には「人間学」と名のつく本がたくさんあります。

偉人の言葉を集めた本。

経営者の人生哲学。

人格を磨くための教え。

私自身も若い頃から、そのような本を随分読んできました。

読めば感心します。

「なるほど」

「立派な人だ」

「自分もこうありたい」

と思うのです。

しかし、しばらくすると元の自分に戻ってしまう。

腹が立てば怒る。

不安になれば迷う。

損得を考えれば心が揺れる。

本を読んでいる時は高揚しているのに、日常生活に戻ると以前と変わらない自分がいる。

私は以前から、そこに疑問を感じていました。

また、人間学を学ぶ仲間と語り合う機会もありました。

先人の教えを学び、

志を語り合い、

互いに刺激を受ける。

それは決して無意味なことではありません。

しかし、その後は居酒屋へ行き、酒を飲みながら盛り上がって終わることが少なくありません。

私はその光景を見るたびに、

「何か違うのではないか」

と思うのです。

人間学とは、本来、人間が変わるための学びではないのでしょうか。

学んだ後に、自分の欠点や執着を見つめ直し、

心が静まり、

行動が変わる。

そうでなければ、人間学は単なる教養や知識の収集で終わってしまうように思えるのです。

私は、人間学とは知識を増やすことではなく、

どんな場面でも自分を失わない人間になること

だと思っています。

順調な時は誰でも立派なことを言えます。

しかし、

病気になった時。

大切な人を失った時。

仕事がうまくいかなくなった時。

批判された時。

その時に心が乱れず、目の前のことに全力を尽くせるか。

そこに人間の本当の姿が現れるのではないでしょうか。

私は三十代の頃、禅の修行を続ける中で、自我が一瞬落ちる体験をしました。

その時の感動は、今でも忘れられません。

何かを手に入れた喜びではありません。

成功した喜びでもありません。

ただ世界がそのまま現れている。

雑念がなく、

自分の手の動きも、

足の運びも、

風の音も、

驚くほど鮮明に感じられました。

私はその時初めて、

「人間とは本来こういう状態なのかもしれない」

と思ったのです。

鎌倉武士が求めた禅も、きっと同じものだったのではないかと思います。

彼らは明日生きている保証のない時代を生きていました。

現代のように、

心を落ち着かせるため、

ストレスを軽減するため、

という理由で禅を行ったのではありません。

恐怖に飲まれないため。

死を前にしても平常心を失わないため。

名誉や損得を越えて、自分の使命を果たすため。

だからこそ禅を必要としたのでしょう。

本を読むことは大切です。

私も読書を否定するつもりはありません。

しかし、本を読むだけでは、人はなかなか変わりません。

結局は、自分の心と向き合う時間を持たなければならないのです。

鎌倉武士が禅によって行った人間学は、

頭で理解する学問ではなく、

自分自身を使って確かめる実践でした。

私は、人間学の答えは鎌倉時代の武士道と禅の中にあると考えています。

もし、

「知識は増えたけれど、自分自身は変わっていない」

「雑念や不安に振り回されない心を身につけたい」

「一度、自分の本来の姿を確かめてみたい」

そう感じている方は、一度、禅を体験してみるのもよいかもしれません。

卒啄塾では、鎌倉武士が求めた禅を現代向けに再構成した『武士道禅一日体験』を行っています。

本で学ぶ人間学から、

自分自身で確かめる人間学へ。

その第一歩になるかもしれません。

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