参禅記

「無我こそ、人間本来の姿。」

参禅記(1990年の坐禅体験記録)

はじめに

これは、私が人生で初めて経験した七昼夜の禅修行の記録です。
当時の私は、ごく普通の中小企業の経営者にすぎません。宗教者でもなければ、特別な修行者でもありません。しかし、今から30数年前、真夏の週末、私は自分の人生を大きく変える決断をしました。都心から500キロも離れた、縁もゆかりもない山深い禅道場で、七日間の禅修行に身を投じたのです。

ある夜、静かな部屋で一人座っていると、心に幾つもの問いが浮かんできました。

「本当の成功とは何か?」
「なぜ、達成感は続かないのか?」
「人生で一番大切なのは?」
「人生の本当の意味とは何か?」
「自分とは何者か?」

私はこれまで、経営書や啓発書を読み漁り、啓発セミナーにも通い、多くの方々と語り合ってきました。
しかし、これらの問いへの答えは、どこにも見つかりませんでした。

この記録は、私が七日間で経験した全ての記録です。単なる精神修養やストレス解消ではありません。人生の本質に触れる、魂の旅路でした。

この体験を記録に残した理由は、同じような問いを持つ方々に、一つの可能性を示したいと考えたからです。特に、リーダーの立場にある方々に読んでいただきたいと願っています。

さて、真のリーダーシップは、自己との対話から始まります。

この参禅記が、あなたの人生の新しい一歩となることを心から願っています。


第一日目 ― 雑念との闘いの始まり

昨夜十時、自宅を車で出発しました。二度の休憩をはさみ、早朝六時に禅寺に到着。未明の空気は冷たく、静寂の中に身が引き締まりました。門をくぐると、修行場としての厳格な空気が肌を刺すように感じられました。到着早々、老師の部屋へ向かい、ご挨拶を済ませました。

老師から、修行の着眼点を直々に教えていただきました。

  • 坐禅中は目を閉じない
  • 数息観(呼吸を数える方法)は使わない
  • 雑念を見つけ次第、即座に呼吸に意識を戻す
  • 坐禅中は徹底的に「今」の呼吸に集中し、雑念を排除する
  • 歩行禅では、一歩一歩を丁寧に、重心移動を意識しながら歩く
  • 食事禅では、一箸一箸、一噛み一噛みに全神経を集中する
  • 常に「今」に成りきることを心がける
  • 起きている間は、無意識、無自覚な時間を徹底的に排除する

修行期間中は、外部との接触を完全に遮断し、携帯電話、テレビ、新聞、私語も一切禁止という厳しい条件が課されました。今まさに、日常から完全に切り離される瞬間を迎えていました。

朝七時、坐禅開始。心を静め、「吐く」「吸う」の呼吸に集中します。しかし、次々と雑念が押し寄せます。家族のこと、仕事のこと、外から聞こえる電車の音、子供たちの笑い声、烏の鳴き声……どんなに努力しても、せいぜい三呼吸ほどで意識が持っていかれます。

時間の経過が異様に遅く感じられ、頭の中は混乱の極み。ノイローゼのような不安さえ感じ始めました。自ら望んで来たにもかかわらず、何度も逃げ出すことを考えました。翌朝判明したことですが、隣室の修行者は夜中に山中から脱走していたそうです。

昼食は、皆で素麺を一斉に頂きます。一汁一菜の質素な食事。会話は一切なし。

老師との対話。

老師:「無雑作に食べるのではなく、注意深く一噛みに集中しなさい」

老師:「味はどうですか?」

私:「美味しいです」

老師:「そんなことは聞いてない!味はどうか」

私:「素麺の味です」

老師:「味はどうですか」

私:「……」(頭が真っ白になり、箸が止まる)

老師:「素直に食べなさい」

禅とは、常識的な思考や判断を超え、ただその瞬間に身を委ねることなのかもしれません。

午後、トイレに行くため座を解きます。一歩一歩を確認しながら歩みますが、「もっと一歩一歩を大切にしなさい!」と注意を受けます。

夕刻まで坐禅を続けますが、外から聞こえる子供たちの声に、我が子の顔が浮かび、妄想が始まります。足の痛みと慣れない姿勢による背中の張りも重なり、心身ともに疲労困憊。

坐禅を甘く見ていた自分の浅はかさを痛感しました。先輩も同様の経験を語っていましたが、誰かに急用を装って呼び出してもらいたいと本気で願う自分がいました。しかし、まだ半日。ここから逃げ出すわけにはいきません。

夕食後、夜十時まで坐禅を続け、不安を抱えながら初日の就寝を迎えました。

この一日で、禅の厳しさと奥深さを肌で感じました。明日は、少しでも「今」に成りきることができるでしょうか。


二日目 ― 痛みとの対話

四時半起床。心境に大きな変化は感じられません。しかし、昨日の注意を思い出し、トイレに行くときも一歩一歩を意識し、今していることから決して心を離さないよう努めます。トイレのノブに触れる感触、引く感触、戸を閉める感触、用を足す感触――そのすべてに集中します。

七時三十分、朝食。一口、一口を静かに、ゆっくりと噛みしめます。緊張の連続の食事。味わうことに意識を向けますが、心の奥ではいつ質問が飛んでくるかと気が気でありません。

八時三十分、坐禅。わずかですが、修行の糸口を掴んだような感覚がありました。積極的に進めます。壁の一点を凝視し、一呼吸に集中します。この悩ましい雑念はどこから生じるのか?いつ消えるのか?ただ努力するしかありません。

十二時三十分、昼食。目の前の席で先生が鋭い眼光で私たちの手元を観察しています。いつ質問が飛んでくるか分からず、食べ終わるまで緊張が続きます。

お茶を口に含んでいると、突然――

○○さん、お茶の味は?」

観念を誘うような問いかけ。隣の参禅者は沈黙。

老師:「飲まなければ分からないだろ」

老師の一言。私は茶を一口含み、ただ微笑みました。言葉は必要ありませんでした。味は、頭で考えるものではない。舌に触れた瞬間、味覚が発動するのです。

すると突然――

「ドン!」

テーブルを思い切り叩く音が響き渡ります。

「これなんだ?」

私は躊躇しながら恐る恐るテーブルを叩き返します。心臓に悪い体験でした。

十三時三十分、坐禅。足が痺れ、感覚がなくなってきました。痛みに耐えることだけに意識が向かい、一呼吸に成り切るどころではありません。しかし、老師の言葉を思い出します。

「足が痛み出したら、足を組み替えろ。それでも痛めば座を立って、一歩に成り切りなさい」

胸の前で両手を合わせ、

「歩くとは!歩くとは!一歩、一歩、今の一歩!」

と呟きながら、無我夢中でただ今の一歩に集中しました。

十八時、夕食。遠く山の方からカラスの鳴き声が聞こえます。

「カアカア鳴いているのは何か?」

「カラスです」と答えた瞬間――

「ゴツン!」

「言葉の概念から離れなさい」

「カアカアはカアカアでしかない!」

また叱られます。思考するな、ただ聞け――。

食後、老師から言葉をかけられます。

「今に成りきるのは大変でしょう」

その言葉に、なぜか涙が出そうになりました。

修行の着眼について教えていただきました。

「心を雑念に用いず、その事、その物に没入し、成り切って、我を忘れればいい」

少しずつ、その言葉の意味が理解できるようになってきました。

十九時、坐禅。一呼吸に、一心不乱にエネルギーを集中します。それ以外の道はありません。

二十二時、就寝。


三日目 ― 歓喜の軌跡と悟りの入り口

四時半に起床し、お堂で朝のお勤めと法話を聞きました。五時から始まった坐禅は、昨日までとはまるで違う感覚でした。自分の一挙一動、周りの環境――すべてが鮮明に感じられ、一つ一つの事実に心が行き届き、驚くほど落ち着いていました。

先輩たちが「三日目に大きな気づきを得た」と語っていた意味が、少しずつ理解できてきました。昼食まで、私は本気で坐禅に向き合いました。

昼食後、老師から「歩くとはどういうことですか?」と問われ、私はただ素直に歩きました。初めて「歩く」ことを理解した瞬間、合格の声がかかりました。それは理屈ではなく、ただの事実でした。

午後、坐禅を再開。禅堂に戻ると、時間の流れが気にならなくなりました。妄想が次々と浮かんでも、その出処をしっかりと捉えられるようになっていました。昨夜までの苦しさはなくなり、坐禅が面白くなっていました。

夕食の時間。食事の一瞬一瞬が「今」を生きる修行です。一箸、一口、一噛み――普段の十倍も遅いスローモーションで咀嚼します。ただ、食べることに没入しました。

夜の坐禅では、雑念が極度に減少し、ついには「雑念のない所」に心を置けるようになりました。本当に、坐禅が楽になりました。

夜九時、静寂に包まれた部屋に戻ると、突如として心の奥底から湧き上がる感情の波に襲われました。温かい涙が頬を伝い落ちます。止めようとしても止まりません。それは、これまで経験したことのない深い至福感でした。

長い間、固く閉ざされていた心の扉が開かれ、体が羽のように軽くなり、世界が一変しました。恐れや不安、疲労さえも消え去り、目の前に広がる全てのものが、新たな輝きを放っていました。自分の手の動き、壁の質感、茶碗の形――一つ一つが、かつてないほど鮮明に、ありのままの姿で見えました。

目を閉じれば、心は静寂に満たされ、雑念は跡形もなく消え去っていました。深呼吸をし、一歩を踏み出します。その瞬間、胸の奥から歓喜の声が響き渡りました。

「やった!やったぞ!」これまで苦しみ、悩み続けてきた呼吸や一歩の歩み。それらが今、こんなにも自然に、ただここにあったのです。

部屋から出て、庭を眺めた時、何という美しい世界なのかと感動しました。これが今まで四十年間見てきた世界だったのか――「有りの侭」とはこんなに輝いているものだったのか。呼吸をしていても、掃いても拭いても歩いても、すべてが「今」の一点でつながっていると感じました。一つ一つの動作がはっきり見え、心が軽くなりました。

ドアに手を伸ばし、ゆっくり静かに押す。一歩一歩、自分の動きに心がついて行ける。なにが違うのかうまく言えないけれど、心が逃げず、自分自身にピタリ寄り添えるのです。

内心では不安もありましたが、その先に何があるのかと期待と喜びに満たされました。

四日目 ― 自然体の安らぎと日常の奇跡

四時半起床。五時の坐禅では、多少の雑念は出ますが、思うように切ることができます。今はまるで自然と一体化しているようです。これが「自然体」というものなのかもしれません。

朝食は、ザルに付いた一センチほどの素麺を的確に箸で捉え、運ぶ軌道もハッキリと見えます。老師に見られていても緊張せず、まるで存在すら気にならないほど落ち着いています。箸を持つ、おかずをつまむ、口に運ぶ、口に入れる、箸を置く――その一連の動作に迷いがなく、心は常に一点にあります。

食事後は「典座(てんぞ)」として皿洗いを担当します。古来より心境の高い者が台所に立つ役割とされるこの仕事を、無心にただこなすことで、単純な行為が生きた修行になります。こんなに楽しいものだったとは、と驚きました。

夕食後、禅堂へ向かいます。坐禅が楽になり、あれほど苦しんだ時間が今では心地よいものです。足の痛みや疲労はありますが、無心になればその痛みすら忘れているのです。

不思議なほどさっらと座禅に就くことができ、深く呼吸に集中できます。気がつけば時計は十時を過ぎていました。食事後すぐのような感覚で、ほんの三、四十分かと思うほど、時間が流れていました。

この時、車の音、風の音、鳥の声、窓から見える小枝の揺れ――目に見えるもの、聞こえるものが、雑念妄想は出たり入ったりしているのに、あるがままでした。「これが自然か!」と感じました。カラスや鳥の鳴き声も、自分と関係なくただの音として聞こえます。部屋の様子にも心がとらわれません。呼吸の中に何もかも消えていくのです。

食事も一箸一箸静かに食べられます。意識ははっきりしているのに、夢の中にいるように無抵抗で、とても楽です。「これが『今』か!これが『ただ』か!」と実感しました。

頭上で「カァ―、カァ―」と音がします。それがカラスであっても馬であっても関係なく、ただの音です。無意識に今の感覚を束縛していたのは「我見」だったのだと気づきました。そこから解放されると、ありのままの世界が広がります。

昼食後、歩行禅の中で先生から頂いた本のことを思い出し、夢中で読み進めました。自己のすべてが本の中に投入され、感情も湧かず、一字一字がはっきり見えます。本から目を離し、書籍棚、窓、机、湯飲み――一つ一つが新鮮に感じられます。

大きく一呼吸し、吸い、吐き、一歩一歩と歩きます。「やった!やった!きっとこのことだ!」――今まで苦しく、辛く悩んでいた一呼吸、一歩、見るもの全てがそのままに見える。ただ成り切ることができるのです。

何と静かな安らぎの世界でしょう。これが「今」なのだろうか。先生の言う入り口に立ったのだと実感しました。

かつての私は、物質的な欲望を満たすことが幸せだと思っていました。しかし今、気づきました。人生最大の幸福は、呼吸すること、歩むこと、日々の些細な営みの中にあるのだと。

心の奥底から湧き上がる、純粋な愛と慈しみの感情。この真理、この感動を誰かに伝えたい。そう思った瞬間、私は迷うことなく老師のもとへと駆けていきました。

老師の穏やかな微笑みが、私を出迎えました。言葉を交わすまでもなく、老師はすべてを理解していたのです。その瞬間、深い感謝の念に包まれ、新たな人生の幕開けを実感しました。

この体験は、私の人生を永遠に変えました。これからの人生を、この感動と気づきと共に歩んでいく決意を固めたのでした。

五日目

四時半起床。

今日は「動きの修行」を取り入れました。日常生活の中で、今の心境を保ち続けるための訓練です。庭掃除、草むしり、雑巾がけ――ただ、その動作に集中します。

「右」「左」と考えた瞬間、それはもう「今」ではありません。ただ、一掃き、一掃きに徹します。

二十二時、就寝。


六日目

四時半起床。

五時、坐禅。心の乱れはなく、坐禅が驚くほど安定しています。

七時半、朝食。一箸、口に運び、一口、一口、丁寧に噛みます。その瞬間に味が生まれ、喉を通れば消える――それが真実です。

「味はどうですか?」と問われると、消えた味を探してしまう自分に気づきます。数日前は「美味しいです」と答えていました。しかし、今ではただ味を味わい、そこに心を持ち出すことはありません。

目も同じです。目に映るものを、ただ映せばいい。心を持ち出すと、「あ、女性だ」「タイプだ」「嫌いだ」と判断が始まります。ただ、そのままを受け入れます。

今では、その意味がよく分かります。

十二時、昼食。今日、新しい参禅者が加わりました。

食事中、その人の無造作な動作が目に入ります。まだ修行を始めたばかりなので当然のこと。つい数日前までの自分も、同じように食事をしていたのだと思うと、一瞬恥ずかしくなります。

十八時、夕食。明日、帰宅する私に老師から労いのお酒を頂きました。

不思議なことに、以前はお酒に弱かったはずなのに、今日は全く酔いません。心境が高まると、お酒に飲まれなくなると聞いたことがありますが、それを今、実感しています。

二十一時、坐禅。時間を忘れ、ただ座ります。

二十三時、就寝。


最終日 ― 新しい世界への目覚め

四時半起床。いよいよ下山の時です。振り返れば、初日は逃げ出したいほどの苦しみでした。しかし、今の私はまったく違います。

老師から、「このまま弟子入りしないか」と言われました。

もし許されるなら、このまま僧侶として「今」を追求して生きていきたい。しかし、現実が私を待ち構えています。下山しなければなりません。

朝食を終え、身支度を整え、老師に挨拶を済ませて車に乗り込みます。

自宅を発った時の私と、今の私――何とも言えない爽快感の違いがありました。一週間の疲れもありません。

途中、渋滞がありましたが、まったく苛立つこともなく、五百キロ以上の道のりを無心に運転し、途中休憩も忘れるほど自然体で帰宅しました。


禅修行からの学び

この七日間で得た気づきを整理しました。

  • 自我を取れば、人の心は本来「善」である。
  • 禅は他力本願ではない。雑念との戦いはまさに格闘技だった。
  • 坐禅だけではなく、動きの中の修行(作務、日常活動)が不可欠。静と動の両方を極めなければならない。
  • 坐禅の目的は、心の癖を解くこと。
  • 悟りのない坐禅は、仏のいない仏教と同じで、何の力にもならない。
  • 足の痛みを我慢して坐禅を続けても意味はない。足を組み替え、歩行禅へ切り替えること。
  • 雑念は、たまに坐禅をした程度では制御できない。
  • 雑念が減るにつれて、自我も減少する。
  • 自我が取れると、物事をあるがままに受け止められる。
  • 五感が研ぎ澄まされ、味覚に敏感になる。
  • 常に意識が覚醒し、ストレスを遮断できる。
  • 人の本質や心の動きが手に取るように見えるようになる。
  • 無心に没頭し、時間を忘れるほどの集中が可能になる。
  • 目に映るもの、耳に入る音に心が揺さぶられなくなる。
  • どんな相手とも堂々と向き合える。
  • 心と身体が一体化(心身一如)すると、対象と隔てがなくなる。
  • 言葉とは、人間が勝手に付けたものであり、実体ではない。例えば、「コップ」と「グラス」は同じ物であり、本来それ自体には名前などない。
  • この境地は、放置すれば水溜まりのようにすぐに濁る。努力を怠らないこと。
  • 「南無妙法蓮華経」や「南無阿弥陀仏」も、繰り返し我を忘れるまで唱え続けることで我をとる禅である。
  • 鎌倉時代、武士が禅を受け入れた理由が分かった。それゆえ、鎌倉には禅寺が多いのだ。
  • 釈迦牟尼仏も禅によって悟りを開いた。「禅」以外に悟る手段はないことを知る。
  • 多くの禅寺では伝統的な形式にこだわりすぎて、真の修行ができない。
  • 悟りを都合よく解釈し、誤った指導をしている者が多い。
  • 「バカ」と言われても、禅定に入ればただの音に過ぎない。
  • 耳の禅、目の禅、歩行禅、語黙動静――日常すべてが禅である。
  • 姿勢が乱れると心も乱れる。姿勢を正すことは、心を整えることに通じる。
  • 雑念がない状態では、物事がより明確に理解できる。
  • 食事は修行そのものであり、三十〜四十分かけて味わうことで少量でも満足できる。結果的に、一週間で七キロ体重が落ちた。
  • 心の隔たり(自我)を取ることが修行の目的。隔たりがある限り、すべてと対立し、苦しみとなる。

下山後 ― 人生の変化

この一週間は、人生八十年のうちのわずかな時間に過ぎません。しかし、私の人生に大きな変化をもたらしました。

経営者として、家庭人として、避けられない判断や決断に迷いがなくなりました。

その後、予てよりご縁のあった会社から合併の話をいただき、数日で決断。さらに、中堅企業数社から取締役や相談役のオファーが舞い込むなど、周囲の人を引きつけるようになっていました。

ここでは書ききれないほどの出来事がありました。


願い

願わくば、多くの人に本物の禅を実践していただきたい。心を平穏にし、人生を堪能してほしいと願っています。

静かな環境で一週間、世間との縁を断ち、坐禅に没頭できる人は幸せです。

経営者や起業家、そして政治家、教育者こそ、この修行を経験すべきです。

成功の鍵は、その人の「人間力」にあります。そして、良い社会を作るには、良い子どもを育てることが必要不可欠だということ。


最後に

人生を変えたいなら、「今までと違う思考」と「今までと違う行動」をしよう。

世の中の流れに流されるだけでは、生き残ることはできない。

人生を変えたいなら、今日を変えること。

今日を変えるとは、今の考え方を変えること。

禅こそ、あなたの人生を変える力となります。

ぜひ、あなたも正師について禅をやってみることをお勧めします。

合掌


追記

禅は特別な人のためのものではありません。本当の「人間力」は、自己との第一歩な対話から生まれます。

今、あなたの人生を変えたいと思うなら、今日という一日から始めてみませんか。

修行の道を歩む中で、私は大きな気づきを得ました。

古来より受け継がれてきた厳格な禅の形式には深い智慧が宿るものの、現代を生きる人々にとって、その敷居は余りにも高いと思います。

その後、鎌倉時代の武士たちが求めた禅の本質を研究するうち、彼らの実践的な悟りへのアプローチが、今日一般的に知られる禅とは異なることに気付きました。

そこで私は、その武士たちの精神性に範を求め、「武士道禅」という新しい実践法を確立することにしました。

この探求の過程で、マインドフルネスの世界的権威であるジョン・カバットジン博士と親交があり、その教えを深く理解する早稲田大学名誉教授である春木豊先生との出会いが、私の実践に大きな影響を与えました。

教授から学んだ現代的なマインドフルネスの手法は、伝統的な禅の教えと見事に調和し、「武士道禅」をより効果的な実践へと高めることとなったのです。

この武士道禅では、伝統的な教えの真髄を保ちながら、現代のマインドフルネスの知見も取り入れています。心の傷を負った人々や、禅の門を叩いたことのない現代人でも、短期間で確かな効果を実感できるよう工夫を重ねています。

こうして私は、古の智慧と現代の叡智を融合させ、新たな禅の道を切り開いていく決意を固め、現在に至っています。

合掌

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